東京高等裁判所 昭和62年(行ケ)177号 判決
一 請求の原因一(特許庁における手続の経緯)、二(本願発明の要旨)及び三(審決の理由の要点)の事実は、当事者間に争いがない。
二 そこで、原告主張の審決の取消事由の存否について判断する。
1 成立に争いのない甲第二号証によれば、本願第一発明の技術的課題(目的)、構成及び効果は次のとおりであることが認められる。
本願第一発明は、トリグリセリド含有量に関する水性液体分析、特に、血清トリグリセリドの分析方法及び分析用組成物に関するものである(本願発明の出願公告公報第二頁第四欄第三一行ないし第三三行)。
従来、グリセリンの測定には左記の(a)ないし(c)の三つの酵素方法が慣用的に用いられている。
(a) ガーランド法及びランドル法
(b) ワイランド法
(c) グリセリンデヒドロゲナーゼ法
これらは全ての場合に、ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド還元型(以下「NADH)という。)の生成もしくは消失がUV・分光分析法の三四〇μmにおいて測定されるが、(b)、(c)の方法は極めてPHに敏感で、厳密なPH管理を保たなければ誤つた値を生むおそれがあり、また、三方法の全てにおいて(特に(a)の方法では)、診断用酵素だけでなく、補因子(コフアクター)すなわちNADHの安定性が主要に関係してくる(同公報第三頁第五欄第九行ないし第六欄第一三行)。
本願第一発明は、厳密なPH管理の必要性及び試薬の安定性から相対的に免れる方法及び組成物を提供することを目的として(同公報第三頁第六欄第二五行ないし第二九行)、本願第一発明の要旨記載のとおりの構成を採用したものである。
本願第一発明は右構成を採用したことにより、<1>パーオキシダーゼが電子供与体として利用するロイコ染料はいずれも指示薬組成物に有効に用いることができ、したがつて、その反応を、染料の選択に依存して、スペクトルの可視区域における数種の波長のうちの一種で測定できる、<2>可視区域で行つた測定は三四〇μmで行つた測定より妨害されにくい、<3>染料のほか、過酸化水素を検出する任意な手段を用いることができる、<4>O2がα―グリセロホスフエート・オキシダーゼ反応の補因子であるのでNADもしくはNADHの安定性は重要でない、<5>従来技術の反応工程を妨害する、NADもしくはNADHを利用する血清成分(例えば、乳酸塩とラクテートデヒドロゲナーゼのたしたもの)は、本処理を妨害しない、<6>O2を電子受容体として用いるときに、O2消費量を測るいかなる手段も検出手段として使用できる、<7>本目的の工程に用いられる酵素は比較的広いPH範囲に亘つて活性であり、このため厳密なPH管理を必要としない、という従来の慣用方法に優る独自の効果を奏するものである(同公報第四頁第八欄第二一行ないし第四一行)。
右認定の事実によれば、本願第一発明は、前記(a)ないし(c)の従来の酵素方法におけるNADHを測定する方法に代えて、(c)の工程、すなわち、L―α―グリセロホスフエート・オキシダーゼの存在下に、L―α―グロセロホスフエートを酸化して検出可能な物質(O2が電子受容体であるときはH2O2が検出可能な物質となる。)を定量する点に特徴を有するものと認められる。
2 原告は、本願第一発明の(B)、(C)及び(b)の工程に従つてグリセリンを定量することが引用例に記載されているとした審決の認定は誤りであると主張する。よつて、以下引用例の記載について検討する。
成立に争いのない甲第三号証によれば、引用例は、「好気的及び嫌気的に生育させたストレプトコツカス・フエカーリスにおけるグリセロール酸化のメカニズムの比較(第五三二頁表題部第一行ないし第三行)」と題する研究報告文であり、次のような記載があることが認められる。
「ガンザラス及びウムブライト(一九四五)は、ストレプトコツカス・フエカーリス(フエシウム)F二四株(グリセロールでの生育に好気的条件を必要とする菌株)によるグリセロール酸化のメカニズムを研究し、グリセロールが最初にホスホリル化されてα―グリセロ燐酸になることを見出した。次いで、このα―グリセロ燐酸が酸化されて過酸化水素(H2O2)そして乳酸を生成する(第五三二頁左欄第九行ないし第一六行)。」「ストレプトコツカス・フエカーリス(一〇c一株)における呼吸経路の我々の研究室での研究は、嫌気的に生育した細胞及び好気的に生育した細胞の酵素パターンに著しい差異が認められた(第五三二頁左欄第二三行ないし第二七行)。」「シーレイ及びデル・リオ・エストラーダの研究(未発表データ)も、グルコースで嫌気的及び好気的に生育させた細胞のグリセロール代謝に差異があることを証明した(第五三二頁左欄第三〇行ないし第三四行)。」「この研究は、二種類の細胞におけるグリセロールの分解を測定することによつてこれらの相違を説明し(第五三二頁右欄第一行ないし第三行)」「圧力測定研究により、好気性生育及び嫌気性生育ストレプトコツカス・フエカーリスの細胞を含まない抽出液が、グリセロールの存在で酸素を吸収しないことが判つた。しかしながら、第1図に示したように、アデノシン三燐酸(ATP)を添加すると、グリセロールは好気性生育細胞の抽出液によつて容易に酸化される(第五三三頁左欄第一六行ないし第二三行)。」「第1図に示した反応の最終生成物を分析すると、O2五・〇マイクロモル及び九・五マイクロモルを消費する間にそれぞれ四・〇マイクロモル及び七・〇マイクロモルのH2O2が蓄積され、反応の終わりに一カツプについて一マイクロモル未満のグリセロールが残留することが判つた。したがつて、利用されるグリセロール一モルについて一モルの酸素が消費され、約一モルのH2O2が形成される(第五三三頁左欄第二五行ないし右欄本文第五行)。」「したがつて、好気性生育ストレプトコツカス・フエカーリスは、グリセロールキナーゼ及びホスホリル化生成物を酸化する能力を有すると考えられる(第五三三頁右欄本文第九行ないし第一二行)。」「第3図に示したように、α―グリセロ燐酸は、好気性生育細胞の抽出液によつてのみ代謝される(第五三三頁右欄第二九行ないし第三一行)。」「α―グリセロ燐酸の酸化を触媒する酵素は、フラビンアデニンジヌクレオチドによつて刺激されるが、フラビンモノヌクレオチド又はリボフラビンによつては刺激されないことが分かつたので、したがつて、フラビンアデニンジヌクレオチドと結合したα―グリセロ燐酸オキシダーゼであると思われる(第五三四頁左欄本文第七行ないし第一四行)。」「この精製物によつて製造されるアルカリに不安定なホスフエートは、酸性ホスフアターゼでホスフエート基を除去し、ケトースに関するセリワノフ試験の変法によつて〔アスニス及びブロデイー、一九五三年〕ジヒドロキシアセトンを測定した後、ジヒドロキシアセトン燐酸として確認された(第五三三頁左欄本文第一七行ないし第二四行)。」「第1図及び第3図に示した実験は、好気性生育細胞の抽出液中にグリセロールキナーゼ及びα―グリセロ燐酸オキシダーゼの存在を証明し、嫌気性生育細胞中にはα―グリセロ燐酸オキシダーゼが存在しないことを証明する。これらの後者の細胞がグリセロールキナーゼを有するか否か測定するために、好気性生育細胞の抽出液から精製した、グリセロールキナーゼ活性を有しないα―グリセロ燐酸オキシダーゼ製剤を嫌気性生育細胞の粗製抽出液に添加した。グリセロール、ATP及び精製α―グリセロ燐酸オキシダーゼの存在で、α―グリセロ燐酸生成系(グリセロールキナーゼ)が存在する場合に、酸素の吸収が起こるはずである。酸素の吸収はこれらの条件下に起こらなかつたので、嫌気性生育細胞中にはグリセロールキナーゼが存在しないと結論された(第五三四頁右欄第九行ないし第二八行)。」「この研究は曝気によつて誘発されるストレプトコツカス・フエカーリスの代謝パターンの顕著な変化、すなわち、グルコースでの好気性生育の間のグリセロールキナーゼ及びα―グリセロ燐酸オキシダーゼの適応形式を示すものである。この酵素経路は、好気的にのみグリセロールを利用する乳酸菌の菌株における構成と同様又は同一であると思われる(第五三六頁左欄本文第一八行ないし第二六行)。」「グルコースで好気的に生育したストレプトロツカス・フエカーリス一〇c一株は、グリセロールキナーゼ及びフラビンアデニンジヌクレオチド―結合α―グリセロ燐酸オキシダーゼを含めて、ホスホリル化されたグリセロール酸化系を含む(第五三七頁左欄第一八行ないし第二二行)。」右認定事実によれば、グルコースで好気的に生育したストレプトコツカス・フエカーリス一〇c一株は、GK(グリセロールキナーゼ)及びフラビンアデニンジヌクレオチド―結合α―グリセロ燐酸オキシダーゼ(以下、単に「α―GPO」という。)を含めて、ホスホリル化されたグリセロール酸化系を含むものであり、そのグリセロールで好気的に生育し得るストレプトコツカス・フエカーリスのグリセロール代謝は、グリセロールが最初アデノシン三燐酸(ATP)の存在下に、GKによつてα―GPを生成し、次いで、α―GPはα―GPOの存在下に酸化されて、ジヒドロキシアセトン燐酸(DHAP)とH2O2(α―GPの酸化に対する水素受容体が酸素である場合)とを生成することからなると認められる。そして、ストレプトコツカス・フエカーリスによるグリセロールの代謝経路を、グリセロールの分解を測定することによつて行つていること、すなわち、好気性生育細胞の抽出液中にGK及びα―GPOの存在を証明するために、細胞を含まない抽出液とグリセロールとの混合液として、グリセロールの酸化(第1図)について及びα―グリセロ燐酸の酸化(第3図)についての実験を行い、さらに、グリセロール、ATP及び精製α―GPOを細胞の抽出液に添加してGKの存在の有無を測定していることからすれば、引用例には左記の反応が開示されているということができる。
<省略>
しかしながら、右反応の化学量論的関係についてみると、引用例には、前記認定のとおり、「O2五・〇マイクロモル及び九・五マイクロモルを消費する間にそれぞれ四・〇マイクロモル及び七・〇マイクロモルのH2O2が蓄積され、反応の終わりに一カツプについて一マイクロモル未満のグリセロールが残留することが判つた。したがつて利用されるグリセロール一モルについて一モルの酸素が消費され、約一モルのH2O2が形成される(第五三三頁左欄第二五行ないし右欄本文第五行)。」と記載されている。このように、反応の終わりになおグリセロールの残留があること、O2一モルの消費に対してH2O2の生成が一モルではなく約一モルであることは、この生成反応が完全に完了していないことを示しており、生成反応においてグリセロールと酸化生成物との間が定量的に進行することまでを示唆しているとは認められない。
してみると、引用例記載のものは、グリセロールの添加の下で生育し得るスレプトコツカス・フエカーリス一〇c一株のグリセロールの代謝経路を研究し、グリセロールがATPの存在下で酸化されてDHAPとH2O2とが生成される過程において関与する酵素であるGK、α―GPOの存在を確認している以上のものではなく、また、該生成反応の化学量論的関係を開示しているとしても、その反応がグリセロールとその酸化生成物との間が定量的に進行することまで開示ないし示唆しているとはいえない。
したがつて、引用例に開示されている反応式〔Ⅰ〕に従つてグリセリンを定量すること、つまり本願第一発明における(B)、(C)及び(b)工程が引用例に記載されているとした審決の判断は誤りであるといわざるを得ない。
被告は、「引用例の記載によれば、酸素の消費量とグリセロールの量とは正確に対応しており、酸素の消費量を測定すればグリセロールの量がそのまま判るということを示しているから、引用例に記載のものにおいても定量関係が成立している」旨主張する。
しかしながら、グリセロールと酸素の消費量との間に正確な定量関係が認められるとしても、酸素の消費量はその酸化生成物をもつて測定されるものである。そして、前記認定したとおり、引用例記載のものにおけるグリセロールからDHAP及びH2O2が生成する反応においては、グリセロール一モルについて一モルの酸素が消費されるのに対して約一モルのH2O2が生成されるのであつて一モルのO2とは対応していないこと、加えて未反応のグリセロールが残留する事実からすれば、引用例記載のものにおいても本願第一発明と同様の定量関係が成立しているとは認めることができない。
また、被告は、「トリグリセリドを臨床的に定量することは参考文献二及び三の記載から周知であるところ、これらの反応式と引用例記載の反応式とは極端に近似しており、当業者であれば、右反応式〔I〕をみれば、この反応を利用して臨床的にグリセリンを定量することは容易に想到し得ることである」と主張する。
成立に争いのない甲第四号証ないし甲第六号証によれば、参考文献二及び三は、いずれも血清トリグリセリドの測定方法に関するもので、α―GPをニコチンアミドアデニンジヌクレオチド(NAD)の存在下にグリセロホスフエート・デヒドロゲナーゼを触媒として用いてジヒドロキシアセトンホスフエートを生じさせると共にNADを還元してNADHに変化させ、NADHを測定分析する方法であることが認められるところ、前記1で認定したとおり、本願第一発明はNADHを定量測定の対象とすることによる欠点を解消するために改良されたものであり、しかも、引用例にはグリセリンがGPOの存在下に酸化されてDHAP及びH2O2を生成するその両者間に正確な定量関係が開示されていないのであるから、使用する酵素をGPOにすることによつてグリセリン定量への利用が容易であるとすることは認め難く、右被告の主張は採用できない。
被告は、「引用例に記載の細胞抽出液は酵素源として使用するものであるが、実際の反応時にはATPが添加使用されており、引用例記載のものも、本願第一発明と同様、酵素と試薬とを接触させるものである」と主張する。
確かに、前記認定のとおり、引用例に記載の実験においては、グリセリンに添加する細胞抽出液が酵素から成り、ATPの存在下に該抽出液をグリセリンに適用していることからすると、該抽出液とATPが本願第一発明における酵素と試薬といえなくもないが、そもそも引用例記載のものは、該抽出液の酵素の存在を証明するための研究であつて、既知のグリセリンを使用しその酸化経路を追求する中に未知のグリセリンの定量について示唆されているとは解されないから、引用例記載のものにおいて、グリセリンの定量測定のために酵素と試薬を接触させることが認識されているとは認められない。
被告は「引用例に記載の既知量のグリセリンを添加した細胞抽出液と本願第一発明における被検試料とを区別することはできない」と主張する。
引用例に記載のものが、細胞抽出液中に存在する酵素を確認するものであることからすれば、該抽出液が被検試料であるといい得るが、これに添加されるグリセリンは被検試料の対象ではなく、むしろグリセリンの酸化工程によつてGK及びα―GPOの存在を証明するという点で試薬に相当するものであり、かつグリセリンの酸化反応が定量的でなく、引用例の記載がグリセリンの定量まで示唆するものでないことは前記した通りであるから、既知量のグリセリンを測定することも定量法といえるとしても、既知量のグリセリンが添加された該細胞抽出液と本願第一発明の水性液体被検試料とを同一視することはできない。
被告は、「引用例に記載の細胞抽出液中も多くの共存物質が含まれており、それにも係わらず酵素反応が進行しているのであるから、血清におけるグリセリンの測定の可能性は引用例に開示ないし示唆されている」旨主張する。
しかしながら、引用例記載のものの細胞抽出液はグリセロールの存在下に好気的に生育する菌株の細胞抽出液であることは前記認定したとおりである。したがつて該細胞抽出液にグリセロールの酵素反応を妨げる物質が存在しないことは始めから確定しており、引用例記載のものはそのような内容の抽出液をグリセリンに適用することで抽出液中の酵素の存在を証明する以上のものではなく、そこにグリセリンを含む水性液体被検試料中のグリセリンの定量測定をし得ることまで示唆されているとは認められない。
3 以上のとおりであるから、審決は、本願第一発明と引用例記載のものとの一致点の認定を誤つたものであり、この誤りが審決の結論に影響を及ぼすものであることは明らかであるから、違法として取り消しを免れない。
三 よつて、審決の取消しを求める原告の本訴請求は正当として認容する。
〔編注〕本願発明の要旨は左のとおりである。
1(a) 水性媒体中において、(Ⅰ)水性液体被検試料と、(Ⅱ)トリグリセリドを含有する液の存在下に次の順序の定量反応工程(A)ないし(C)、すなわち、
(A) トリグリセリドを加水分解してグリセリンとする工程(以下「A工程」という。)
(B) グリセリンをL―α―グリセロホスフエートに転化する工程(以下「B工程」という。)、及び
(C) L―α―グリセロホスフエートをα―グリセロホスフエート・オキシダーゼの存在下に酸化して、検出可能な変化を生ずる工程(以下「C工程」という。)を行う、酵素及び試薬とを接触させ、次いで
(b) 前記検出できる変化を検出することを特徴とする水性溶液中のトリグリセリドを検出する(以下「b工程」という。)方法。(以下「本願第一発明」という。)
2 血清中のトリグリセリドを検出するに当たり、
(a) 水性媒体中において酸素の存在下に、
(Ⅰ) 血清被検試料と
(Ⅱ)(A) リパーゼ
(B) ブロテアーゼ及び相溶性を有する界面活性剤から成る群から選ばれたイフエクター、
(C) 大腸菌もしくはカンジダ・ミコデルマ(Candida mycoderma)のグリセリンキナーゼ、
(D) アデノシントリホスフエート、
(E) ストレプトコツカス・フアエカリス(Strepto-coccus faecalis)から得られるα―グリセロホスフエート・オキシダーゼ、及び
(F) 過酸化水素及びパーオキシダーゼの存在下で定量的な色の変化を示す染料前駆体とパーオキシダーゼ
を含む指示薬組成物とから成り、約六・〇及び約八・〇の間のPHに緩衡させた組成物とを接触させる工程、及び
(b) 前記色の変化を検出することを特徴とする血清中のトリグリセリドを検出する方法。(以下「本願第二発明」という。)